UFOの日にちなんだラノベについて
1947年、6月24日――アメリカ。
実業家のケネス・アーノルドが初めてUFO(Unidentified Flying Object=未確認飛行物体)を目撃した日を記念日として制定した。
それが今日、すなわちUFOの日だ。
このケネスの目撃情報が全米を駆け抜けた時から、UFOの目撃情報が次々とメディアに寄せられたという。
そこで、当時のアメリカ政府は科学者委員会を設立し、この謎の飛行物体に関する調査を開始した。しかし、結局のところUFOの正体を掴めるだけの結果は得られず、委員会では「目撃者の見間違い」という結論に落ち着く。
これが、記念日制定の簡単な経緯だ。
しかし、ぼくたちラノベオタクにはまた別の意味がある。
分かる人にはわかる特別な日。
ぼくにとって、大切なラノベを思い出させる日。
イリヤの空、UFOの夏だ。
しかし前回、「イリヤの空、UFOの夏」について少し触れた。
今日は別の視点から本作の魅力を語りたい。
だが、その前に…………。
この作品は、ラノベやサブカルに詳しい方ならば「ああ、セカイ系のラノベね」という認識があるだろう。
いわゆるゼロ年代(2000~2009年代を指す)に流行した作品群を定義する「ゼカイ系」作品の代表と言えば他に「最終兵器彼女」などが挙げられる。
ラノベのセカイ系代表といえば、本作だろう……そんな認識を貴方は持たれるだろうか?
まあ、概ね正しい。
(――余談であるが、このセカイ系とは「ぼく」や「わたし」の少年少女などの若者の恋愛など個人的な苦悩と、世界の崩壊がイコールで結び付くような物語構造らしい。残念ながら正確な作品定義は無く、従って筆者も曖昧模糊とした説明となった。ご容赦願いたい。)
しかし、何も筆者は「セカイ系」の物語構造だからと言ってハマったワケではない。
秋山瑞人という作家の細部にまで拘った文章構成、キャラクター造形にドハマりしたのだ。
その一例を挙げれば、まず第1巻、第一章のタイトルが「第三接近遭遇」だ。
なんてオシャレなんだ!
SFに詳しい人ならば唸ったであろうし、何も知らなかった学生の頃のボクは単純に「なんか、ただならぬ事が起こるんじゃないか?」そんな期待が膨らむタイトルだった。
ちなみに、この第三接近遭遇とは、上記の米国政府が設置したUFO調査委員会に参加したジョーゼフ・アレン・ハイネック博士(1910~86年)の著作『The UFO Experience: A Scientific Inquiry(邦訳 『UFOとの遭遇』)の分類から引用されている。
簡単に説明すると、彼の分類では、下記の通りになる。
▽第一種接近遭遇
空飛ぶ円盤を500フィート(約150メートル)以下の至近距離から目撃すること。これにより円盤のうち広い角度が確認でき、さらに細部についても確認することができる
▽第二種接近遭遇
空飛ぶ円盤が周囲に何かしらの影響を与えること。乗り物や電子機器の機能への影響、動物の反応、麻痺・熱・不快感など目撃者に与える影響、その他地面に接触した跡や化学物質の跡など、何らかの物理的な痕跡を残すようなもの
▽第三種接近遭遇
空飛ぶ円盤の搭乗員と接触すること
つまり、最初に主人公である浅羽直之が出会った少女は、「第三種接近遭遇」であったワケだ。
夜の学校に侵入した浅羽は、そこで見知らぬ少女がプールで泳いでいる所に『偶然』にも遭遇してしまう。(本書を読まれた方ならば、もう一度この作品を読み直す時にこそ、この第一章のタイトルにガツンとやられるのではないか?)
何度読んでも発見があって、たまらない。
しかし、文庫本4冊の物語の白眉ともいえる最終巻である4巻こそ、多くの読者たちの心を鷲掴みにした筈である。
ここで、筆者の大好きなシーンを引用したい。
※ちなみに、一応のネタバレシーンになるので、ご注意してほしい。まだ未読の方は意味不明な内容であるが、ご容赦願いたい。
◇ ◇ ◇
「ぼくはやりますよ、ひとりでも」
(中略)
「やる――とは、ミステリーサークルを作るという意味かね」
「はい」
(中略)
浅羽は、クラクションが聞こえなくなるまでその場に立ち尽くした。
「――さて、」
さて。
ひとりでやるなどと大見得を切ったが、なんだか心配になってきた。
ひと気のない公園から空を見上げ、気合を入れる。
これが最後だ。
終わる、のではだめなのだ。
終わらせるのだ。
この夏を終わらせよう。自分の手で幕を引こう。何日かけてもいいから、この空のどこからでも見えるようなでっかいミステリーサークルを作り上げて、それからこの山を降りよう。
図案はもう心に決めている。
園原基地の裏山に刻まれた、でっかいでっかい「よかったマーク」だ。
(――引用、電撃文庫、『イリヤの空、UFOの夏』第4巻P328~P330)
あ、終わったんだ。
当時、読み終わった直後に飛来した虚脱感と、その後に押し寄せる妙な満足感。まだ学生だった時分の筆者には、歳の近い浅羽という主人公に感情移入していた筈なのに、最後の最後で、浅羽は大きく成長してしまった。
読者だった筆者は、彼の成長した姿が眩しくみえた。
初読から十年以上が経過した。
今読み返すと、昔とは違う感想を抱いてしまう。
妙に、青臭さがたまらなく懐かしくなる。……それだけ、色褪せない名作なのだ。