更新の記事

久々の記事更新をしたいと思う。

最近は全く長い文章を書くことをせず、もっぱらSNSで下品なやり取りに終始してきた。

長い文章――とりわけ、読書の感想文や考察をすることは、自身の論理的思考を鍛えることに繋がる。内容の良し悪しは置いておき、文章を書くことは自分の内面へと深く潜ることと同義である。

 

だから、文章や内容を褒められた時、人は言葉にできない無類の悦びを得るのだ。文章への称賛は、まるで「魂まで肯定された」かのような錯覚をおぼえる。

 

奇しくも作家の村上春樹は小説を書くことについて、「深い井戸に潜るようなもの」と彼独特の比喩(メタファー)を用いて表現した。言い得て妙である。

 

自己の無意識下に潜って取り出した「言葉」は、自分も知らない自分であり、それを他人から肯定されることは『本当の自分を知ってもらえた』ような錯覚に陥る。

 

現代では懐疑的になったマズローの五段階欲求説であるが、自己承認欲求は欲求ピラミッドの最上に位置している。つまり、誰かに認めて欲しい欲求が人間の根底にはある。そして、その欲求には際限がなく永遠に求め続けてしまう。食欲のように満腹で満たされることのない。

 

だからこそ、現代人にとって安易に自己承認欲求を満たせるSNS・ネットは危険な存在である。誰かが「電子ドラッグ」と揶揄したのも頷ける。

そして、私もまた、同じ中毒者である。

 

だからこの記事を書き、誰かに賛同されたいが為に文字を書く。

 

気が向けば、また更新しようと思う。

 

 

 

 

なぜ、ボクたちは刀や銃のような武器に魅了されるのか

なぜ、ボクたちは「刀」や「銃」のような武器に憧れるのだろうか? ふと、そんな疑問が頭に浮かんだ。

 

そもそも、なぜボクたち男の子は武器に興味を持つのだろうか? 武器とは本来、獲物を狩ったり、あるいは人間同士で殺し合う物だ。

 

だったら、ボクたちは潜在意識で得物を殺したり、人を殺したいのだろうか? いいや、少なくとも殺人衝動もないし狩猟だって興味はない気がする。

 

であれば、圧倒的な力が欲しいのだろうか? う~ん、これもあまりピンとこない。もし、圧倒的な力が必要なのであれば、ボクたちは「核ミサイル」を好きにならなければおかしい。

 

それに、圧倒的な力が好きなのであればボクたちの職業では「屠殺業」や「刑務官」のように一方的に力を行使できる立場に人気が集まらなければおかしい。しかし、世界的に見ても傭兵や兵士になりたがる人たちはいても、「屠殺業」などの人気は低いように思う。

軍人などは戦場で敵を殺すが、しかし一方的に殺せるワケではない。むしろ自分も殺されるリスクが生じる。つまり、殺し殺されるリスクは半々なのだ。

 

であるにも関わらず、屠殺業よりも軍人の志願者の方が多いように思える。

 

・・・・・・・少し話が脱線した。

 

つまり、ボクは2つの仮説を用意した。すなわち、ボクたちが武器に心惹かれる理由は①他動物の角や牙、爪のように強い個体を示すシンボリックな物としての魅力②相手/自分を滅ぼす物としての魅力

 

この2つによって、ボクたちは武器に魅力を感じているのではないか? という事だ。

 

当然、それ以外の要因もあるだろうし、むしろボクの仮説は暴論だと自覚している。

 

まず、①は多くの人に納得してもらえる内容ではないかと考えている。つまり、武器を持つ事で、ライオンやゾウ、虎など他動物が有する強さを手に入れられる点だ。

 

ホモサピエンスは基本的に発達した牙や爪、角などはない。せいぜい、体の大きさなどだろう。自然界では武器を持たない人間なんて弱いのだ。

逆に言えば、武器を持つ人間は強い。

だからこそ、ボクたち――もっと言えば、人間の雄は特に武器に惹かれる。これによって個体としての生存力を強くして、周囲に己の強さを誇示できるようになる。

 

もちろん、武器自体の美術性もあるだろう。

 

このような複合的要因によってボクたちは武器を好きになる。

 

・・・・・・そして②の仮説だ。

 

ボクたちは武器を持って「戦う」作品などを好むし、武器自体も好む。

 

しかし、先ほど上で記したように、どうやらボクたちは圧倒的過ぎる力にはさほどの興味を持たないらしいことは分かった。

 

むしろ、ボクたちは対等な立場での「戦い」を好むらしいのだ。

 

しかも、戦場は常に相手を殺す場所でもあれば、自身を殺す場所でもあるのだ。動物における雄の役割は自己の集団を守り、子孫を繁栄させるため多く繁殖活動を行い種を保存させることが目的だ。

 

ホモサピエンスの雄もこの例に漏れない。

 

であるにも関わらず、有史以来、戦争はあり、しかも武器は変化してきた。普通、己を殺しうる「武器」は忌諱されてしかるべきであるにも関わらず、むしろ幼年期の頃からボクたちは「武器」に魅了されてきた。

 

それは、その武器という殺しを追求し、そのため進化してきた代物に対して己を滅ぼす美しさを感じているからではないだろうか? 潜在意識の中でボクたちは常に「相手を倒す」イメージをしながら、その表裏一体として「自己が滅ぼされる」イメージをしているのではないだろうか? これは、両義性ともいえる。

 

本来的にボクたち、人間の雄は種を守り、繁栄させる役割を追う生物であるハズなのに、自意識と高い知性によって『人間という存在』へ歪に進化してしまった。その結果、武器という代物に魅力を感じてしまうようになった。

 

だが、圧倒的な力は欲さない。なぜならば、「核ミサイル」が刀や銃ほどに人気がないから。

 

だから、ボクたちは今日も武器を愛でる。

それは本当か?

ヤフコメやツイッターにて、日本国などを指して「資本主義の終わり」なる意味不明な念仏を唱える人々がいる。はて、彼らのどれほどがマルクスの「資本論」の一冊でも読んだというのだろうか?

 

いや、そもそも日本国の初歩的な法律すら知らないらしい。

 

そもそも、マルクスが批判した当時の資本主義とはイギリスでの過酷な児童労働など当時社会問題化していた事象であり、「労働者を守るための仕組み」としての方法などを提唱していたのは周知の事実である。

 

しかし、「資本主義は終わり」マンたちのおかしな所は日本国が「修正資本主義」であることを綺麗サッパリ知らないのだ。いや、その言葉すら出そうとしない。ワザとだろうか?

 

日本国が運用する資本主義はマルクスが批判した黎明期の資本主義ではない。「修正資本主義」だ。

つまり、日本には労働法もあり、さらに福祉関連法もある。社会のセーフティーがある。

 

しかし、「修正資本主義とはいえ、労働者も福祉も満足に機能してないだろう!」と反論する人もあるだろう。その通り。つまり、修正資本主義の中の「制度が機能不全」を起こしているに過ぎない。従ってその機能不全を起こした部分を修正すればよい。もっと言えば、上手く機能しない制度の問題であって「資本主義の終わり」ではないという観点がゴッソリ抜け落ちている。

 

筆者は別に資本主義礼賛主義者ではないが、あまりにもネット上では妄言が飛び交うため、色々思う事があって文章を書いた。

 

間違って欲しくないのは、筆者は政治的な話をしたいワケではない。むしろ、その話題は避けて通りたい。

 

しかし、今回の事はネットでどれだけ妄言が飛び交っているかを知って、筆を執った次第である。

日日是奇日

今日は本当に色々と考えた事を文字に起こしたいと思う。

 

まず、以前から私が考えていた「話上手」と「おしゃべり」の違いだ。

 

かつて、思想家・吉本隆明は「沈黙もまた言語」と喝破した。どういう意味だろうか?

通常であれば「沈黙=無音」の図式が成り立ち、意思疎通が図れないように思う。だが、我々は言語を使ったコミュニケーションとノンバーバルコミュニケーション(非言語的コミュニケーション)の二つを使い分けている。

 

ノンバーバルコミュニケーションとは具体的にどのようなものか?

一例を挙げれば、アイコンタクト、または身振り手振りで意志を伝えるジェスチャーなどがある。

つまり、吉本の言葉を借用すれば「沈黙もまた言語である」ということは、ノンバーバル領域に属すコミュニケーションという事になる。また、諺にもある通り「沈黙は金なり」と同じ意味合いであろう。

 

人間は表層のテクスト(文面)を読む能力とコンテクスト(文脈)を読むことが出来る動物である。

 

つまり、これを当てはめれば人間同士の会話中に突然沈黙した場合、沈黙された側は相手の「コンテクスト」を察知する(読む)ために想像力を働かせる。沈黙した側は意図的(あるいは無意識的)に、「沈黙することにより、己の意図を察知させる」という高度なノンバーバルコミュニケーションを成功させていたのだ。

 

これが可能なのも、人間が言語を操る高度な知性を持つ社会的動物であるからに他ならない。

 

しかし、当然であるが我々は生まれた瞬間から時間をかけて、外界の複雑な意思疎通を学び取ってきた。だから、改めて当たり前の事を言っているに過ぎない。

 

だが、一方で当たり前である事柄が「なぜ、当たり前」であるのか? この疑問を解消したがる欲求もまた、自然の摂理であると筆者は考える。

 

人間が対象となる物事を理解する場合、「納得する」という作業が必要不可欠である。そのため、筆者はあえて「当たり前のこと」を点検する。

 

我々が常に将来に不安を覚えるのは実は「将来が得体の知れない存在」だから恐れるのだと思う。実は、人というのは具体的な問題に直面すれば意外にも対処方法はいくらでも持っているのだ。それが、人間の強みである「適応力」が発揮されるのだから。

 

だが、人間は対応しようにもできない「不安」を抱える。これは、生物として生きる術の一つとして獲得した形質である。それはあたかも、薬であると同時に毒でもある。

 

つまり、本題である「話し上手」とは、筆者の定義では「沈黙を上手く使える人間」という事になるのだ。現代の若者(筆者を含んでもよい)は動画配信サイトなどの影響により、とにかく「喋り続ける人間」のことを「話し上手」と勘違いするのだ。

しかし、会話で大切なことは両者の意志の疎通であるのだ。いわゆる、現代的な「話し上手」の彼らは一方的に喋る能力に長けていても、どれほど相手の意志を汲み取っているだろうか? いや、もっと言えば「沈黙」自体を嫌いマシンガンのように喋り続けている。それはコンテンツとしては優秀な能力だろう。しかし、本来的な「話し上手」ではない。

 

同じ「しゃべる」ことを仕事にしている落語家はどうだろう?

 

彼らの職業は代々口伝により芸事を継承し続けた職業であり、これは歴史という研磨に耐えた一個の実例として見做すことができる。

 

この「落語」の面白さは特に沈黙、あるいは息継ぎなどを巧妙に配置するため、一見マシンガントークをしている風に見せかけても計算された芸術なのである。

 

とはいえ、台本がある芸術とフリートークなどを同列に語るのは公平ではない。ただ、あくまで例として挙げたに過ぎない。

 

とはいえ、昔の人間より明らかに現代人は「喋る速度と内容」が増えた。そういう意味では現代人は「利口」なのかもしれない。だが、それは単なる言葉の空費であり、言葉の消耗に繋がるのではないか?

 

物事は醸成することでより、多義的な解釈や面白さを得ることができる。それを表面的な部分をなぞって終わりでは何の意味があるのだろう。

 

・・・・・・とりとめのない話になった。この話題は切り上げる。

 

次は才覚に関することを考えたい

三島由紀夫の「金閣寺」が童貞文学である理由について

 三島由紀夫(大正14年〈1925年〉~昭和45年〈1970年〉)は、昭和を代表する小説家であり知識人であった。

 

 彼の代表作『金閣寺』(昭和31年〈1956年〉文芸雑誌「新潮」刊行)は、昭和25年(1950年)、実際に起こった京都・金閣寺炎上事件をモデルに描かれている。

 

 この金閣寺炎上事件とは何だったのか? 

 当時、大学生であった青年が金閣寺という日本でも有数の寺院を放火した。社会に与えた影響は凄まじく、国宝の舎利殿46坪を全焼し、文化財の仏像6点も焼失する結果となり、日本全国に大きな波紋を広げた。

 

 数々の自然災害や戦災から逃れ続けた金閣寺が、たった一人の青年の犯行により一夜にして塵灰に帰した。まさに、日本文化の一翼を担う建物の喪失である。

 

 このようなセンセーショナルな事件を、当時はまだ新進気鋭の小説家だった三島由紀夫が小説化する事となった。

 

 創作の経緯については『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社)の「三島由紀夫全集 第6巻」にある創作ノートで詳しく書かれている。

 

 (余談であるが、この決定版の全集では三島由紀夫の創作ノートが付録として読める点から小説の意図や制作経緯について細かく理解することができ、大変重宝している。)

 

 この重大事件を三島は約1年間をかけて準備を行った。京都はもとより犯人の出身地まで赴き綿密に彼の生い立ちから事件当日に至るまでの行動を調べ上げ、時には大学生であった犯人の学業単位についても記録している。

 

 しかし、結果的に三島は綿密に調べ上げた内容のほとんどを使わず、むしろ現実世界の素材を用いて三島文学の真骨頂である「美」を主題とした作品へと昇華させていく。

「美」の世界に憧憬を抱き、困惑する青年という架空の人物へと仕立て上げていった。

 

次回は、その三島文学における「童貞性」について話してみたい。

 

 

 

初心者が思う、自作のえちち漫画をつくる恐怖!!

※まず、はじめに。タイトルにもある通り、かなり下品な単語を羅列するため不快に思う人は読まないでね!

 

 

さきほど、ツイッターのアンケ機能を使って質問をしてみた。

 

『自作のエロ漫画で自慰行為はできるのか?』

 

実にシンプルかつ、答えにくい質問だったと思う。改めて投票して頂いた方にはお礼申し上げたい。ありがとうございます。

 

 

上記のアンケート結果は、「自慰行為できる」が100%だった。(母数の少なさは単に私のヘボい部分だから気にしないでね)

 

筆者は、正直この結果にビックリ仰天した。

 

 

まさか、シコれるが100%とは思わなかったのだ!

 

そして、密かに「・・・ははぁ、なるほど」と妙に納得もしていた。まるで、一つの天啓を得たような気にすらなった。

 

筆者も現在、エロ同人を作るために絶賛練習中である。しかし、ここで一抹の不安が胸を過った。

 

「仮に、エロ漫画を作ったとして、それは読者がシコれるのか?」

という、極めて重要な問題だ。

 

エロ漫画に重要なのは、ページ数でも絵の綺麗さでもない。本当に必要なのは自慰行為がたくさんできるのか、否かである。

 

これは、筆者がこれまで様々なエロ漫画・エロ本を漂流してきて得た一つの真実である。

 

絵が上手すぎる作家さんは昨今星の数ほどいるが、たくさん精液を吐き出させる作家は一握り(チ〇ポじゃないよ)しかいないのだ。シゴク、当然のケツ論に思い至った。

 

そう、エロ漫画でシコるのは絵のウマい下手ではない。そのエロ漫画が「好き」か「嫌い」かの二択なのだ。

 

つまり、初めてエロ同人を作る上で筆者が現在至上命題にしているのは「下手でもいい。シコれるようにしよう」ということだ。

 

しかし、・・・・・・しかしである。

 

 

そもそも、エロい絵も漫画を描いたことのないオッサンが偉そうに語っても説得力がない。そこで、筆者はネットの最下層であり魔窟であるツイッターにて質問を投げてみた。

 

それが、上記のアンケ結果に繋がる。

 

筆者はそもそも、「誰にとってシコれるか」を具体的に想定していないかった。もし、自作エロ絵がシコれるか判断に困った場合、誰に相談できるというのか?

 

パパか? ママか? おいおい、ふざけんなよ。無理に決まってんだろ。

良い年したオッサンが急に「ねぇ、みてボクが描いたエロ漫画だよ!エロい気分になる?」って質問してみろ。

 

泣かれるわ! おい!

 

理性的に考えよう。

一番身近にシコれるか判断できる奴は一人しかいない・・・自分だ。自分自身がシコれるかどうか判断するしか方法がないのだ。

 

しかし、どうだろう。世の中でエロい絵を上げてる人々は果たして自分のチンポを頼りに漫画を、イラストを描いているのだろうか?

 

ふと、魔が差して質問してみた。

 

 

どうやら、この世界――少なくとも、筆者の質問に答えて頂いた方々は「オレは自作エロでシコれるぜ!」と答えてくれた。

 

 

・・・思わず、噴き出した。

 

それとともに、妙な自信というか勇気づけられた気がした。

 

『いいか、お前は誰の評価でもない。そのエロい絵で自分のチンポが反応するかどうかが重要なんだ!』

 

まるで、そう言われているようだった。

 

ネットの見知らぬ人に、意味不明に勇気づけられてしまった。これだから、変人ってのは楽しいんだよ。そう思った1日になった。

 

 

だから、とにかく筆者はこれからも継続してエロい絵を練習していこうと思う。

 

とはいえ、最近部屋にはエロ漫画が増えた。資料を買うという名目に次々とエロ漫画を買うものだから、自慰行為する回数が増える。絵の練習の筈なのに、まったく前に進まない。乳ばかり見ているから遅々として作業が進まず、といった状況だ。

 

 

しかし、一方でこう思う。

「なーに、心配ないさ。焦ることはない」

趣味で創作しているんだ。絵を描くんじゃなくて、マスをかいても仕方ない。

小説を趣味で書いていた時期も、ある意味では立派な『マスかき』ボーイだったワケだ。

 

マスをかく前にまず、マスをかきマス・・・・はい。

 

もう、夜も遅くなってきた。早くねろ。

偉大なる打ち切り漫画、「どろろ」について1

手塚治虫の中でも、カルト的な人気を誇る「どろろ」は、週刊少年サンデーで1967年から連載が始まり、一旦は掲載元を秋田書店の『冒険王』に変えて1969年に完結した。

 

本作が打ち切りとなった理由として、少年漫画的でなく、内容があまりに陰惨であることが一般ウケしなかった理由として挙げられている。

 

確かに連載で、ハードな世界観を延々と読まされれば、大抵の読者は逃げるだろう。もちろん、暗くなり過ぎないよう手塚流のギャグ調の明るさはあるものの、全体を通して救いがない。

 

◎本作のあらすじ

時代は戦国時代、とある国の主、醍醐景光は国の存亡を賭ける戦いを前に必勝祈願のため、山林の奥にある寺の堂で祈祷する。

ーーと、彼の願いを聞いた魑魅魍魎たちが、仏像の裏から景光に取引をもちかける。

 

曰く、こんど生まれてくる景光の赤子を生贄にすること。

 

景光は、悪魔の取引を行い国の維持を優先した。

 

結果、生贄となった赤子は契約の通り、48カ所が欠損した状態で生まれてきた。そのあまりの醜さに景光は、赤子を川に流して捨てるように指示する。

 

この赤子を偶然にも、医者の寿海が拾い、失った手足を木製の義手などで補い、ひとりの「人」として成長していく。

その過程で、この子供が魔物を呼び寄せる不思議な体質であることを知り、寿海は彼に無銘の太刀を渡し、自身を守れるように訓練させた。

 

そして、14年後。

 

48か所を欠損して生まれた赤子は、立派な青年「百鬼丸」として成長する。彼は、自身を受け入れてくれる場所を探すため、寿海のもとを離れ、孤独な旅に出た。

 

道中、大人たちに袋叩きに遭っている子供「どろろ」と出会い、妙な縁から共に旅をする。

 

これは、失った体を取り戻す青年と、ある使命を秘めた子供の物語。

 

◎本作のおすすめポイント

何といっても、まずギミックのカッコよさ! 筆者が一番の推しポイントとして挙げるのは主人公・百鬼丸の戦闘ギミックだ。

彼は48か所を奪われた状態からスタートしているため、普通の人間よりもハンデがあるハズ・・・そう考えるのが普通の感覚だ。

しかし、本作はそのハンデを逆手にとって、戦闘ギミックを充実させている。

まず、メイン武器となる腕には、刀が仕込まれており、戦闘時には鞘となる上腕を引き抜き白刃を露わにして妖魔を斬り伏せる。

その鮮やかな戦闘描写は、第1話から炸裂。

 

物語冒頭、木橋を襲う巨大な妖魔を斬り伏せるため、百鬼丸は身軽に敵の攻撃を躱しながら鮮やかな太刀さばきで敵を斬捨てる。

 

このシーンだけで、彼の誕生秘話が明かされる前だというのに、百鬼丸という男が常人と異なる存在だと読者は理解する。

 

半世紀以上前の作品にもかかわらず、腕に隠された刃で闘う・・・・・新しい! その上カッコいい!

しかも、長い髪を後ろで束ねている姿も、このギミックと相まってがイイ!

後ろ髪を靡かせながら颯爽と妖魔を斬り伏せる主人公!

 

これだけで、中二病な筆者のハートは完全に仕留められた。

しかも、この怪しい男・百鬼丸の誕生秘話を知った時、さらに彼の運命の過酷さに同情と共に応援したい気持ちになってくる。

 

子連れ狼よろしく子供を引き連れ、各地で暴れまわる妖魔たちを退治しながら旅を続ける、一種のロードムービ―感。

そして、次々と取り戻される肉体と引き換えになる「強さ」

 

堪らんですよね。もうね、これでもか!ってほどにラーメンを盛るお店みたいに大好きな性癖よくばりセットを詰め込んでくれてますよ。

 

 

 

まだまだ、語り足りないぜ! ってことで、次回はどろろが掲載されてた時代背景をもとに語ります!