日日是奇日

今日は本当に色々と考えた事を文字に起こしたいと思う。

 

まず、以前から私が考えていた「話上手」と「おしゃべり」の違いだ。

 

かつて、思想家・吉本隆明は「沈黙もまた言語」と喝破した。どういう意味だろうか?

通常であれば「沈黙=無音」の図式が成り立ち、意思疎通が図れないように思う。だが、我々は言語を使ったコミュニケーションとノンバーバルコミュニケーション(非言語的コミュニケーション)の二つを使い分けている。

 

ノンバーバルコミュニケーションとは具体的にどのようなものか?

一例を挙げれば、アイコンタクト、または身振り手振りで意志を伝えるジェスチャーなどがある。

つまり、吉本の言葉を借用すれば「沈黙もまた言語である」ということは、ノンバーバル領域に属すコミュニケーションという事になる。また、諺にもある通り「沈黙は金なり」と同じ意味合いであろう。

 

人間は表層のテクスト(文面)を読む能力とコンテクスト(文脈)を読むことが出来る動物である。

 

つまり、これを当てはめれば人間同士の会話中に突然沈黙した場合、沈黙された側は相手の「コンテクスト」を察知する(読む)ために想像力を働かせる。沈黙した側は意図的(あるいは無意識的)に、「沈黙することにより、己の意図を察知させる」という高度なノンバーバルコミュニケーションを成功させていたのだ。

 

これが可能なのも、人間が言語を操る高度な知性を持つ社会的動物であるからに他ならない。

 

しかし、当然であるが我々は生まれた瞬間から時間をかけて、外界の複雑な意思疎通を学び取ってきた。だから、改めて当たり前の事を言っているに過ぎない。

 

だが、一方で当たり前である事柄が「なぜ、当たり前」であるのか? この疑問を解消したがる欲求もまた、自然の摂理であると筆者は考える。

 

人間が対象となる物事を理解する場合、「納得する」という作業が必要不可欠である。そのため、筆者はあえて「当たり前のこと」を点検する。

 

我々が常に将来に不安を覚えるのは実は「将来が得体の知れない存在」だから恐れるのだと思う。実は、人というのは具体的な問題に直面すれば意外にも対処方法はいくらでも持っているのだ。それが、人間の強みである「適応力」が発揮されるのだから。

 

だが、人間は対応しようにもできない「不安」を抱える。これは、生物として生きる術の一つとして獲得した形質である。それはあたかも、薬であると同時に毒でもある。

 

つまり、本題である「話し上手」とは、筆者の定義では「沈黙を上手く使える人間」という事になるのだ。現代の若者(筆者を含んでもよい)は動画配信サイトなどの影響により、とにかく「喋り続ける人間」のことを「話し上手」と勘違いするのだ。

しかし、会話で大切なことは両者の意志の疎通であるのだ。いわゆる、現代的な「話し上手」の彼らは一方的に喋る能力に長けていても、どれほど相手の意志を汲み取っているだろうか? いや、もっと言えば「沈黙」自体を嫌いマシンガンのように喋り続けている。それはコンテンツとしては優秀な能力だろう。しかし、本来的な「話し上手」ではない。

 

同じ「しゃべる」ことを仕事にしている落語家はどうだろう?

 

彼らの職業は代々口伝により芸事を継承し続けた職業であり、これは歴史という研磨に耐えた一個の実例として見做すことができる。

 

この「落語」の面白さは特に沈黙、あるいは息継ぎなどを巧妙に配置するため、一見マシンガントークをしている風に見せかけても計算された芸術なのである。

 

とはいえ、台本がある芸術とフリートークなどを同列に語るのは公平ではない。ただ、あくまで例として挙げたに過ぎない。

 

とはいえ、昔の人間より明らかに現代人は「喋る速度と内容」が増えた。そういう意味では現代人は「利口」なのかもしれない。だが、それは単なる言葉の空費であり、言葉の消耗に繋がるのではないか?

 

物事は醸成することでより、多義的な解釈や面白さを得ることができる。それを表面的な部分をなぞって終わりでは何の意味があるのだろう。

 

・・・・・・とりとめのない話になった。この話題は切り上げる。

 

次は才覚に関することを考えたい